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桂三木助 (3代目) : ミニ英和和英辞書
桂三木助 (3代目)[かつら みきすけ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [けい, かつら]
 (n) (abbr) knight (shogi)
: [み]
  1. (num) three 
: [き]
 【名詞】 1. tree 2. wood 3. timber 
: [すけ]
 (n) assistance
: [よ, しろ]
 【名詞】 1. world 2. society 3. age 4. generation 
: [め, もく]
 【名詞】 1. (1) item 2. division 3. class 4. (2) piece (in Go)

桂三木助 (3代目) : ウィキペディア日本語版
桂三木助 (3代目)[かつら みきすけ]

3代目桂 三木助(かつら みきすけ、1902年3月28日 - 1961年1月16日)は、東京都文京区湯島出身の落語家。本名小林 七郎(こばやし しちろう)。出囃子は「つくま」。NHKとんち教室落第生。日本芸術協会所属だったが最晩年に脱退し、フリーを経て落語協会に移籍。当時まではとりわけて注目もされていなかった、円朝作と云われる落語芝浜を独自に練り上げ得意にした。以降、芝浜は夫婦の情愛を美しく描いた名作落語として認識されるようになり、多くの落語家が口演するようになった。現在でも3代目三木助のものが傑作と云われることから通称「芝浜の三木助」他にも通称は田端の三木助」「隼の七」
== 来歴・人物 ==
実家は床屋。後日、養子であることを知るが両親には最後まで聞かなかったと告白している。実父は相貌の非常に良く似た2代目桂三木助という説があったが、近年の研究でこれは間違いであったことが明らかとなっている。ただし本人は生前に「''実は(湯島天神の床屋に)藁の上からの貰い子だったんだよ。''」と発言している。三木助の長女(小林茂子)がブログ(2012年3月28日記事)で明かしたことによると、三木助の実父は東京都紀尾井町のある華族("M"という名の男爵家)の次男であり、実父が長野県の貴族院議員の家へ養子縁組した際に、息子の三木助は床屋の小林家へ養子縁組されたとのこと。
母親(実母ではなく小林家の育ての親)の実の弟が4代目春風亭柳枝(後の初代春風亭華柳)。彼に弟子入りしようとするが、既に老齢のため断られ、自分の総領弟子である6代目春風亭柳橋に弟子入りするよう勧められる。柳橋に入門した。以上のような経緯をたどったため、二人は年齢差が極めて小さい(2歳差)師弟となった。しかし修行はきちんとこなし、柳橋の住み込みの内弟子となる。以後、三木助自身が日本芸術協会を脱退するときまで、柳橋に師事する。
若い頃は大阪名古屋へも流れるなど放浪を繰り返し、一時は日本舞踊花柳流の師匠(花柳太兵衛(はなやぎたへい))となり落語も廃業している。戦後も賭場通いを繰り返し日本橋界隈の賭場の連中に『橘ノ圓(まどか)』(落語家としての当時の芸名)では通じないが「隼の七」(賭場で名乗っていた名)と聞けば誰もが知っているという荒んだ生活を繰り返した。
彼の人生を変えたのは、踊りの師匠時代の弟子仲子への直向な愛である。25歳年上の博打好きに嫁がせることは出来ないと考えた仲子の家からは、「三木助を継げるような立派な芸人になれたら。」という条件を出した。どうせ出来まいという気持ちが、仲子の家の方にはあったのだろうが、彼は心機一転、博打を止め(この心情を、後に三木助は「芝浜」の主人公の断酒に感情移入して語っている。)ついに3代目三木助を襲名し、二人も結ばれることになる。
名人への道を進んだのは壮年になってからで、「江戸前」「粋」「いなせ」という言葉を体現したような芸風で、とりわけ「芝浜」を得意演目とし「芝浜の三木助」と呼ばれた。話の構成力、写実力に優れておりその輝きは現在も光を失っていない。初代雷門福助の話によると、噺家仲間相手に演じてみせた8代目桂文楽の「芝浜」を見た三木助がそれを気に入り、嫌がる文楽に無理を言って教えてもらった、といういきさつがあるという。文楽はネタとして「芝浜」を持ってはいたが、高座にかけることはしていなかった。
また、浪曲の鬼才2代目広沢菊春と意気投合し、落語界に持ち込んだネタが「ねずみ」である。
長年日本芸術協会(現落語芸術協会)に所属していたが、8代目桂文楽に私淑し、また序列問題でのゴタゴタもあり、フリーを経て最晩年落語協会に移籍。日本芸術協会会長の師匠柳橋とは最後までそりが合わなかったとされる。落語協会移籍前には、5代目柳家小さんに、6代目三遊亭圓生を担いで新協会設立の画策を相談したこともあった。昭和36年1月16日午後4時37分、東京都北区田端にある自宅で胃がんのため死去した。
昭和36年に夭逝した三木助の口演を記録した映像は一本も残されていない、もしくは発見されていない。昭和39年没の3代目三遊亭金馬8代目三笑亭可楽の完全な口演映像が一本ずつ残されていることに比しても惜しまれる。三木助の落語の録音は、40演目のべ46席のみが残されており、それらを全て収録した全集が市販されている。同時期に活躍した落語家達と比べても残された口演音源が少ない理由の一つとして、落語全集の出版のため普通社に保管されていた三木助の音源を、当時普通社に出入りしていた或る女性が社外へ持ち出した結果、紛失したことも挙げられる。
日本芸術協会退会時、既に二つ目になっていた弟子は芸術協会に残した。前座の弟子のうちほとんどは、自らに帯同させ、約一年間フリー(彼ら前座は、木馬館で、浪曲の前座として落語を演ずる機会を与えられた)を経て落語協会に移籍させた(3代目三遊亭圓輔らは帯同せず)。前座の弟子は、三木助死後も(落語協会の幹部の門下に直り)落語協会に留まった。前者は8代目春風亭柏枝(後の7代目春風亭柳橋、大師匠6代目柳橋門下へ)など。後者は9代目入船亭扇橋(三木助の兄弟分だった5代目柳家小さんの門下に直る)や林家木久扇等。彼ら元三木助門下の弟子たちは、一人一人それぞれまったく違ったキャラクター・芸風となり(そのため高座を見ただけでは旧師三木助の痕跡を辿るのは極めて困難である)、しかも彼らの多くは売れている。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「桂三木助 (3代目)」の詳細全文を読む




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